君がいないことは君がいることだな
「たとえば人権ってのはフィクションじゃないですか~」というとすぐ社会正義に熱い人から「このネトウヨめが!総括の上、死罪!」などと言ってくるわけだが、それは彼が「無謬の真理」を信じているからである。「無謬の真理」の前には「フィクション」はせいぜい下位の概念であって、究極的には唾棄すべき存在であるからだ。
だが、俺様が言ってるのは、すべては価値判断に従属するという点で真理などなく、その意味であらゆる概念や思想は等価である。いや、等価じゃなくても、せいぜい差異の範囲内っすよね。そういうことなのだ。そういう意味で自由、人権、平等などの精神がアプリオリに正しいものであるという思想は宗教と何も変わらない。根拠がないから。神秘主義を取り去った宗教である、ということもできる。神秘主義を取り払った宗教というのは厄介なもので、疑う余地を隠ぺいしている分、盲信度も高くなってしまうのである。
さて、真理などない。神も、民主主義も、自由も、世俗主義も、デカダンもニヒリズムの焼き直しである。逃避せずに現実を肯定しよう。超人になろう。と言ったのは有名なニーチェさんであるけれども、ご存じのとおり、ニーチェさんは超人になどなれずに発狂して死んでしまいましたのである。現実は苦しい、しかし現実逃避はダメだ、よし現実と戦おう。負ける。これが我々の置かれてる状況であり、かなりどうしようもない気がする。屁のつっぱりはいらんですよ。
トランプはキモくてモテないおっさんの救世主たるか?
いや、マジで革命が起きているのだ。今。
行って、あなたもそのようにしなさい。
善人なおもて往生す、いわんや悪人をや。
選挙で何も変わらないというけれど変わった。というのは「選挙で何も変わらない」ということを決定的に認識するようになった人が増えてるということだ(俺のツイッターTLの印象だが)。
国民主権というのは完全に欺瞞であり、支配層である行政は何も変わらない。そして立法府も行政に頼らなければ何もできない。そしておそらく行政にはもう別にすることはない。ただただゆっくり国家が衰退していくだけだ。「君の一票が力を持つ」なんていう学級委員野郎の顔には唾を吐きかけろ。くだらない権力追従儀式にはもう参加する必要はないだろう。
我々人民は暴力革命には走らない程度に飼い慣らされて衰弱死していくだけだ。サイコー。
では、人生に救済はないのか。ある。信頼できる人間との共生だ。
最近、梅原猛先生の本を読んでるのだが、梅原の親鸞解釈は面白かった。梅原は悪人正機を中心にする親鸞観を近代人の個人主義的解釈に過ぎぬという。つまり生来的な欲望の単なる肯定に親鸞を利用するのが近代人だと言うのだ。梅原は親鸞の本質の思想は二種廻向だと言う。阿弥陀の慈悲により極楽に往生した人間は再び現世に来て利他行を行う。これが個人主義的独善を乗り越える思想なのだ。ここで人間の業に依らない来世での救いの確信と現世での善行が両立するのだ。俺はキリスト者なので、ここに信仰義認と二重予定説の教理とのアナロジーを見る。ここに普遍的真理の一片が見出せるような気がする。