福音を生きるとは

誰の誤解を解くというわけでもないが、俺は護教論を展開したいんじゃないんだよ。むしろ、キリスト教この辺ロジック弱いよな、いい加減だなと思う箇所は多々あるわけですよ。でも、そこツッコまれても別に痛くないよってところを知ったかバカが得意気に突っ込んでると、ああ低脳がと思ってイラっとくるわけですよね。

 

整合された体系に納得するが故に人は信仰を持つわけではない(そういう人もいるだろうけど、そういう人は頭でっかちなので行き詰りがち)。
だから整合してないよね、と言われても、そう整合してないんですよと答えるほかない。これは開き直りのようだけど、整合性が実証できるのなら、それは客観的事実であって信じる対象ではないじゃないか。
これは読み方の問題だ。わけのわからん長大な聖書を読めば必然的に信仰が導かれるのではない。もっと言えば、あれは行き当たりばったりの書物の寄せ集めなのだ。そうじゃなくて結論ありきで読むのだ。それは「私は必ずイエス・キリストにより救済される」という結論だ。
では、救済とは何か。キリストとは何か。イエスとはだれなのか。それを自分の人生をかけて引き受けるということなのだ。来世で永遠の命が与えられるなんて信じられないと誰かに言われたら、じゃあ現世で救われる方向で考えてみたらどうですか。と俺は答えるだろう。めちゃくちゃですか。そう、めちゃくちゃなんです。
まあ俺は割と保守的な信者なので教会の教義にイチャモンつけたりしないが、別に神話も奇跡もご利益も神すらも否定して、イエスに倣う道だってあるのだ。
イエスとの出会いとはそういった可能性への心の開きに他ならないのだから。

 

次回は相席屋に行くような男を批判したいと思います。